山中城跡

"交通のご案内"

元箱根から,山中城跡バス22分、徒歩1時間

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お天気がよいので、母を誘ったが都合が悪く、私達夫婦二人で出かけることにしました。

箱根はたびたび行っていますので、

夫がかねてから機会があったら、行きたいと思っていた

山中城跡公園と、行ったことのない箱根恩賜公園、ポーラ美術館に行くことにしました。

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【日程】2004年1月6日〜7日

中山

"国指定史跡山中城跡"

史跡山中城は小田原に本城をおいた北条氏が詠観年間(1560年代)小田原防備

のため創築したものである。やがて、

天正17年(1589年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ四の丸や出丸等の増築が始り、

翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で、

落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長の

副将間宮康俊の墓は三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。

看板

"ガイド"

街道

"箱根旧街道"

木道

"三の丸堀"

三の丸の曲輪(くるわ)の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、

大切な防御のための堀である。

城内の各曲輪(くるわ)を囲む堀は城の縄張りに従って堀割った畝を掘り残したりして、

自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して

中央に縦の畝を設けて、二重堀としている。

田尻の池

"田尻の池"

東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、

盛土によって区切られたものである。

山城では、水を蓄える施設が城の生命であるところから、

この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。

堀

"元西櫓下の堀"

城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を

深く掘り下げたものが堀である。

また山中城の堀に、石垣が用いられていないということは、

大きな特色である。

障子堀

"障子堀"

後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す。

いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。

三条の滝

"西魯 建物跡"

西の丸を前面発掘したが、建物の遺構は、発掘されなかった。

この地の開墾耕作でかく乱された可能性が強く、

もしあったとしても、臨時の小屋程度のものであろう。

北の丸跡

"北の丸跡"

標高583m天守櫓に次ぐ本城第二の高知に位置し、面積も1,920平方メートルと立派な曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪 よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例すると言われている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。 調査の結果、この曲輪は、堀を掘った土を尾根の上に盛り土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。また本丸との間には 木製の橋を架けて往来していたことが、明らかになったので木製の橋を復元整備した。

橋

"架橋"

発掘調査の結果、本丸と北の丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。 山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。 木製の橋は、土橋と比べて簡単に破壊できるので戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり曲輪の防御には有利である。

本丸跡

"本丸跡"

標高587m天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。

周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と化している。

クスの木

"クスの木"

三島市の保存樹(樹齢600年)
仙石原へ